こんにちは、たまごです。
日本では活躍できなくても、海外でなら自分の居場所を見つけられる人がいます。
私は日本でフルタイムの仕事をしたことがありますが、どれも空回りしていたり、全社で最下位の成績だったりと、全くうまくいかず、一時は病気にまでなってしまいました。
それでも復活して、海外で自分の役割や居場所を見つけることができました。
今日は、あくまで私個人の事例に基づいたお話になってしまうのですが、海外就職してよかったことについてお話ししたいと思います。ものすごく強引にまとめると、「日本の昭和的な男女の役割概念に違和感を感じている、発達障害ぎみの女性が、海外就職でやりがいのある仕事を見つけた話」です。
もし記事を読んでいただいて、「あるある!」と思われた方、日本でのサラリーマン生活がうまくいっていない方は、海外就職も選択肢の一つに加えていただいていいと思います。
台湾で就職してよかったこと
日本で求められたような「女性らしさ」は必要ない
小さい頃から、女性だからとか女のくせにとか言われるのが大嫌いでした。でも日本の会社で働いていたとき、女性を売りにしている仕事でなくてもことあるごとに「女性らしいきめ細かいサービス」「気づかい」などを求められることが多くありました。
大学や大学院では社会学を専攻していて、ジェンダーについても議論することが多かったのですが、大学の議論で論破することができたことが実社会では論破できません。
就職したのが女性が非常に少ない業界ということもあって、女性は珍しがられると同時に、女性は気が利かなければならないという変な期待を持たれていたと思います。
私は見た目はいかにも女性らしいようなのですが、性格はというと、気が利くタイプではまったくありません。人の気持ちは推察することはできても、人の身になって同情するとか、きめ細かい気づかいをしたりとか、そういうことはできません。
見た目から勝手にもたれるイメージと現実との間にはさまりながら、「自分の正論」が通用しない日本の企業社会で働き続けることはものすごくストレスでした。
今は台湾の企業で、日本の取引先との窓口を担当していますが、台湾では仕事以外の付き合いはほとんどしなくていいし、お客様がいらしたときの接待の際も、女性社員も男性社員もよく気が付いて、お酒を注文したり、支払いをサッと済ませてくれたり、いろいろなことを手伝ってくれます。
いろいろな場所や移動手段のアレンジやお酌などなど、もちろん気がついたら自分でやりますが、他の同僚と分担して補いながらやっています。別に女性だからといっていろいろな細かいことを自分が率先して気がついてやらなければならないということはありませんし、万が一不備があったとしてもそのことで責められたりしません。
日本の取引先の窓口の方々も海外部門の担当者になるので、いろんな国へ出張している方が多いですし、海外留学や海外就職経験のある方もいます。そういう方々とのやりとりで無駄に日本人女性らしいことを求められることはありません。
ですので、日本でサラリーマンをしていたときのようにいちいちジェンダー関連のことでストレスを抱えることはなくなりました。
数合わせの仕事をさせられない
台湾で日本人が正規に雇われる場合、企業は「専門技術を持った人」を一定以上のお給料で雇う必要があります。平たく言うと、”ホワイトカラー”の人材を雇う必要があります。
勞動部 台湾政府(労働部)によると、ホワイトカラーの外国人の最低賃金は月換算で47,971元です。台湾のフルタイムの最低賃金が23,800元ですので、そのほぼ倍の額となります。
※ヘルパーさんなどの外国人の場合は別のルールが適用されます。
これは台湾現地の人の仕事を奪わないようにする策と思われます。もし台湾人でもできる仕事であれば、わざわざ外国人を雇い入れて、台湾人の仕事を一つ減らす意味はないですもんね。
採用までは楽ではありませんが、台湾の企業に正規の雇用で採用されれば、仕事の内容はある程度はっきりしたものになります。
例えば私は会社で唯一の日本人のスタッフですので、私は翻訳や取引先との交渉、関係維持の仕事に専念すればいいのです。
私が苦手な単純作業や細かな庶務は、アシスタントの方々の仕事です。日本の会社に勤めていたときに求められた、女性のきめ細かさは必要ありません。精神的にすごく楽です。
その代わり、日本に関係あることはなんでも私の担当になると言うこともあります。
でも販売している商品に魅力を感じていますし、仕事そのものにやりがいがあるので、苦には感じていません。
注意してほしいこと
私は台湾で台湾人オーナーの企業に就職しています。
同じ台湾でも、日本企業に勤めている日本人の友人たちはいろいろな雑用を押し付けられたりしています。会社によって状況は違ってくると思いますので、ご注意ください。
日本の企業社会がとにかく合わなかった〜私の欠点
暗黒の東京サラリーマン時代
最初に勤めていたのは東京にある中堅規模の企業でした。
外勤で、営業ノルマもあったのですが、毎月全く達成できずに成績は全国で最下位でした。
販売するサービスは名寄せやデータベースで、入社前はそのデータがとても素晴らしいものだと信じ、自分が想像もできないようなすごいノウハウで構築されているんだと勝手に思い込んでいました。
でもいざ入社してみると、そのデータ作成のマニュアルが思ったよりも適当で、作った人によって質に大きくムラが出てしまうようなものだと分かり、失望してしまいます。
それ以来、自分の会社のデータなんか価値のないものだと思ってしまうようになりました。
※今思えばそれを役立てているお客様もたくさんいたので、価値がないということはないのですが、当時の私はそういう風に考えを改めることはできませんでした。
上司や同僚には「お前は仕事のポイントも理解してるし、話している感じもちゃんとしてるし、売れそうなのに、なんでだろうねぇ」とよく不思議がられました。
でも自社のサービスに価値がないと思い込んでいるので、お客様に自信を持ってすすめられなかったのです。
営業の他に、データベースの構築のノルマもありましたが、作れという指令のあったデータは、お客様から発注の入っていないデータでした。要は会社がウチはこれだけのデータを持っている、ということをお客様にアピールするためだけに命じられた仕事です。私の作ったデータのうち、多くは永遠に発注されることなくデータベースの中に蓄積されるためだけに存在を続けていきます。数合わせの仕事です。多くの同僚が「会社の方針だから、これでお給料がもらえるんだから」と割り切ってやっていましたが、私はこの仕事にどうしても意義があると思えず、頭ではやらなければいけないと分かっているのですが、身体が動かない、仕事が進まないということが続きました。
向いていないので異動願いを何度も出しましたが、認めてもらえませんでした。
転職でもすればよかったのですが、他にやりたいことも見つからず、闇雲に就職活動しても意味がない、と思い、心の中にいろんな問題を抱えて働いているうちに、心の病気になってしまいました。
自分の異変に気づきつつ、心療内科を受診する勇気が出ずにいたのですが、ある日ついに「文章が読めない」ということが起きたんです。
もちろん仕事で毎日たくさんのネットや書類の情報を読みますし、元々本を読むことが好きだったので、読むスピードは平均よりもずっと早いはずなんです。
それが、ある日たった一ページの内容を10分かかっても20分かかっても理解できなくなってしまい、これは専門の先生に診てもらわないとまずいと思いました。クリニックを受診し、うつと診断されました。
発達障害ぎみ
ところで冒頭で発達障害ぎみという表現をしました。私の場合は、はっきりと発達障害と診断されたわけではないのですが、”ADD”に当てはまる部分がとても多いです。”ADD”という言葉、聞き慣れない方もたくさんいらっしゃるかもしれません。でもADHDなら聞いたことがあるのではないでしょうか?
ADHDもADDも注意力が欠けている発達障害ですが、ADHDが注意欠陥多動性障害、ADDが注意欠陥障害です。違いは「多動性」の有り無しです。(ADDは、最近では正式な診断名ではなくなってしまったそうですが、言葉としては使われています。)
「多動性」はよく言われるのが、授業中に歩き回ってしまうような落ち着きのなさです。ADHDは動き回ってしまうので多動性があり、様子が明らかに他の子と違いますが、ADDの場合不注意が多いだけで落ち着きはあるので、見た感じ、他の子との違いがはっきりしません。
好きなことには没頭して、ときどき人よりすごい能力をはっきしたりしますが、興味のないことはがんばれないと言うのもADDの特徴の一つだそうです。
自分がこの障害にものすごく当てはまると感じてから、今まで不可解だったいろいろなことがわかってきました。
泣かないで生まれてきた私はピンチに弱い
私と同年代のアイドルグループ嵐の歌の中に
泣きながら生まれてきた僕たちはたぶんピンチに強い
オリコンニュース
という歌詞があります。
一般的に、実際にお腹から出てくる最中に泣いている状態の子どもはおらず、子どもが泣き声をあげるのは生まれてでてきたその直後らしいですが(笑)、
私は生まれてきたときボーッとしていたのかなんなのか、安産で、泣き声を一切あげずにスルッと出てきました。母は私が出てきたのかどうなのかわからず、いきみ続けていたそうです。生まれた後もあまり泣かず、いつも寝てばかりいたそうです。
仕事がうまく行かなくて心療内科に通っているとき、「そうか、今まで泣きわめくような辛い経験をしていない、とっても順調な人生を送ってきた自分は、ピンチに弱いダメな人間んだ」と思ってしまいました。そういう主旨の歌じゃないっていうことはわかっているんですけど…当時は相当病んでいました(^^;)
別にお金持ちの家に生まれたわけではありませんが、小さい頃から特に何かに不自由することもなく、学校の成績もずっとよかったので、自分も親も先生も友人も、私にこんな傾向があると気づかなかったんです。
勉強や研究は好きだからがんばれたし、何時間連続で作業しても苦にならなかった。
ADDはADHDとは違って落ち着きはありますから、授業中立って歩き回ったりするということはありません。勉強好きな子は、好きなことに熱中しますから、成績は当然良くなります。一見優等生に見えるので、それで余計に発見が遅れます。
でも嫌なことをそこまで我慢してやるということをできませんから、数合わせの仕事は、頭では「自分は社員でお給料をもらっているのだから、何がなんでもやらなければならない」とはわかっているのですが、身体が言うことをききません。
病気になって初めて「みんなは小・中・高と、こんなに嫌なことを乗り越えてきたのか。そういう人たちが自分のライバルなんだ。自分は今まで自分の力でいろんなことを成し遂げてきたと勘違いしていたけれど、それはただラッキーなだけだったんだ」とものすごくネガティブな気持ちになりました。
上司に「お前はちゃんと学校も出てるし、成績もよかった。部活で全国大会に出たこともある。勉強や研究、練習はどれも厳しかったと思う。それなのにどうしてこれくらいのことが乗り越えられないんだろうな…」と言われたことがあります。ただ叱りつけるだけでない良い上司でした。自分でも本当にどうしてなのかわからず、悩みました。どうしたらいいかわからなくて、会社のみんなに迷惑をかけました。
学校の優等生が社会の劣等生に
履歴書だけ見ると「まあまあ優秀」なたまごさんは、実社会では役立たずの会社のお荷物でしかありませんでした。
社会に出たとき、特に女性はきめ細やかさなど余計なことを求められますが(少なくとも私はそうだったと思っています)、中身は頭の中がとっ散らかった片付けられない人間で、気も効きません。「優等生」というラベルを貼られ、「女性らしい見た目」をしていることと、「実は頭の中がいろんなことでぐちゃぐちゃ」「好きなこと/偏ったことしかできない」という、会社やお客様から求められることと、自分のできること・できないこととの間でものすごいジレンマを抱きました。
そして、興味のないことに対して注意力がとても散漫になります。自分が自分の勤めている会社のサービスに魅力を感じなくなってからというもの、自分では注意しているつもりなのに凡ミスがひどく、自分でもどうしたらいいかわかりませんでした。ついにはやっていないことをやったと言ってしまったり、逆にやったことをやっていないと勘違いしたりすることもありました。もし自分が社長で、そんな社員がいたらクビにしたかもしれません。今思えば、本当に向いていなかったんだと思います。
躁うつ傾向で発達障害ぎみの自分を受け入れる
クリニックでは最初はうつだと言われていましたが、通ってしばらくして心療内科の先生から「厳密に言うと躁うつ傾向があるようだ」と指摘され、それに合ったお薬を処方してもらいました。そして、躁うつとADDのことを合わせて考えたとき、今まで自分についてのいろいろな不可解なことが腑に落ちました。
例えば小学校一年生のとき、学校に行くのが無性に嫌だった時期が何ヶ月か続いたことがありました。行きたくなくなるような理由・・・いじめとか、勉強が嫌だとか・・・は特にありません。逆に、小学校5〜6年生くらいの時、授業で一度聞いたことは忘れず、大して勉強もしていないのに100点を取りまくり、何をしても楽しくて仕方なくて明日が待ちきれない時期が続いたこともありました。そういう不調と好調を何年かおきに繰り返していました。
ADDと躁うつは関連していることも多く、自分でそれを理解してコントロールすることが必要です。以前は、自分が好きなことを何時間でも夢中でやり続けることもありましたが、今ではそこを抑えて、休み休みやるようにしています。そう状態でハイのときは、何をやっても気分も体調もいいですが、実際は身体は相当疲れていて、しばらくすると大反動が来るためです。
治療も経て、本を読んだり、友人とこのことについて話したりすることで、自分のことを前よりもよく理解できるようになりました。今のところこういう自分の欠点と上手に付き合えていると思いますし、嵐の歌も素直な気持ちで聞けるようになりました(笑)
そして躁うつでも、自分はダメだと思っても、死にたいと思わなかったのは、心のどこかで、それでも自分には何か価値があると信じられたからです。それは親の育て方が大きかったと思います。うちの両親はあまり私のことは褒めてはくれないのですが、私のことをとても可愛いと思ってくれていることをなぜか私は知っています。どんなにハチャメチャなことをしても、他のきょうだいと平等に、無償の愛情を注いでくれました。だから自分がどんなに役立たずでも、自分のことをどこか好きでいられました。
海外で暮らしたいと思うようになったきっかけ
心の病気治療中に、なんでもいいから楽しいと思えることをしてみましょうとクリニックの先生に言われ、前からいい匂いのするものが好きだったので、ガーデニングをしたりアロマテラピーをしたりするようになりました。アロマテラピーでは気持ちを明るくすると言われる香り(ラベンダーやスィートオレンジなどなど)もあって、大好きになり、後に趣味でアロマテラピー検定一級も取得しました。
さらにアロマテラピーから派生して、元気をくれる花やその他の植物としてオーストラリアのワイルドフラワーの存在を知りました。フラワーレメディとかホメオスタシスって、アロマテラピーと違って科学的に証明されていない部分もあるのですが、妙にひかれるものがありました。そして、そのジャンルで有名なイギリスのバッチフラワーのような優しい色合いの植物たちよりも、ビビッドで激しい色合いの、厳しい自然を生き抜くオーストラリアの野生の植物の写真を見ているうちに、なんだか元気が出てきて、いつか本物を直接この目で見てみたいと思うようになりました。
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心療内科からもらっている薬もだいぶ減って、オーストラリア旅行を実現でき、その後、クリニックの先生からも「もう治療は必要ない」と太鼓判をもらいました。そして自分が役立たずだったのではなく、自分が自分を理解していなかった+単純に職場環境や仕事が自分に合っていなかったんだと納得することができました。
その後、オーストラリア永住を目指してオーストラリアの専門学校に留学することに決めます。
その後いろいろあり、今は台湾にいますが、過去の失敗を踏まえて、今ではやりがいのある仕事ができています。体調も、20代の頃よりもずっといいです。
ADDのことについては主に『大人のADD 慢性的な注意欠陥を克服するメソッド』という本を中心に読みました。この本はとても好きで、実家から台湾に持ってきた数少ない紙媒体の本のうちの一冊です。ADD傾向のない人にとってはものすごく当たり前のことが書かれているのかもしれないのですが、この本を読んでからグチャグチャだった頭の中がだいぶスッキリして、以前よりも心おだやかに過ごせるようになりました。(例えばセールで無理して服を買わないとか、ポイントカードのポイントを貯めないとか、自分に合った仕事の選び方、時間の管理の仕方、服の片付け方、バッグの中の整頓の仕方などなど。)ADDでなくても、忘れ物や不注意が多いかも?と思う方は、ぜひ手にとってみてほしいです。
他にも「大人のADHD(ADD)」、「女性のADHD(ADD)」などで探してみるといろいろ出てきます。ぜひ参考にしてみてください。
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まとめ
長くなりましたが、私が一番言いたいことは、日本の特殊な企業社会に合わなかったからと言って、自分はダメだと思い込む必要はないということです。
そして、コミュニケーションレベルの語学力さえあれば、海外で仕事を見つけることも十分可能です。
台湾の話をすると、中国語や英語がペラペラではなくても、「ネイティブの日本語話者で、日本のビジネスの進め方を理解している人」という求人はけっこうあります。日本の特殊な企業文化は、いくら日本語ができても外国人(日本以外で育った人)にはなかなか難しいことや、日本の商品や技術、サービスが魅力的なことが背景になっていると思われます。
もちろん、現地採用で来ているので、日本のような手厚い福利厚生はありませんし、厚生年金もなし、退職金もゼロなので、自分で対策をしなければならない部分も多いですが、今台湾で生活して、仕事している方が、私はずっと幸せです。
絶対に成功するとは言えませんが、もし私の経験したことに共感されることがあれば、視野を海外に向けてみてもいいと思います。
もちろんわざわざ海外にでなくても、何かを変えてみるのは大事だと思います。もし今仕事で悩んでいる人がいたら、いつか自分に合った職場環境や仕事に出会えることを願っています。最後まで読んでいただき、ありがとうございました(^^)
【外部リンク】
「うつ病かもしれない」「もし本当にうつ病だったら?」…今悩んでいる方にぜひ読んでいただきたい、役立つコラムです。
*リンク先 [キズキビジネスカレッジ] は、うつや発達障害等で離職した若者の支援事業を行う就労移行支援事業所です。
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